芸術家の生涯:マーク・アレクサンダーインタビュー

芸術家の生涯:マーク・アレクサンダーインタビュー Arté Magazine 17号(2005年春・夏号)

Japanese Translation by Junji Nakagawa, LL.D.
Professor of International Economic Law
Institute of Social Science
The University of Tokyo

中川淳司
東京大学社会科学研究所教授

1. 小学校時代

Arté Magazine (以下「AM」: 生まれたのはいつですか?

Mark Alexander (以下「MA」): 1966年。

AM:どこで?

MA:ホーシャム1

AM:それはどこですか?

MA:東サセクス州の町だよ。母親には2人姉妹がいてその長男はどちらも4月8日生まれなんだ。6歳違いだけど。で、僕が3人目の4月8日生まれというわけ。

AM:で、63年に生まれたと。

MA:いや、6年。

AM:66年ですね。

MA:この感じ、いいね。このインタビューの仕方、いいよ。気に入った。

AM:お父さんは何を?

MA:知らない。

AM:つまり、お父さんはどんな?

MA:知らない。

AM:絵に興味を持つようになったのは何時頃から?

MA:話が急に飛んだね。

AM:いや、それはあなたが父親について話したくないようなので。

MA:本当に父親についてはよく知らないんだ。

AM:あなたは一人息子でしたか?そうじゃなかったのかな?

MA:腹違いの兄弟が1人いるよ。

AM:小学校はどこに行きました?

MA:サイレンセスター2郊外のストラットン3の学校。小さな村の学校だったよ。それから、難しい子供が通う特別な学校に転校した。

AM:それはまたなぜ?

MA:僕が難しい子供だったから。

AM:なぜ難しい子供だったのですか?

MA:さあなんでかな。難しい子供だったんだ、生まれつき。

AM:肉体的なハンディキャップはどうでした?

MA:生まれつき内反足だったんだ。それからてんかん(癲癇)だった。てんかんは生まれつきじゃなかった。11歳頃まではてんかんはなかった。

AM:どうやって治療しました?

MA:薬を飲んだよ。エピリム。紫色の大きい錠剤。

AM:薬は今も飲んでいますか?

MA:いや、もう止めた。止めてずいぶんになるよ。

AM:最後のてんかんの発作は何時頃でした?

MA:18歳のとき。

AM:ということは、もう治ったということでしょうね。なんでてんかんの発作が起きたんでしょう?

MA:さあ、よくわからないけど、ストレスじゃないかな。ボクシングの試合をしたことがあるんだ。11歳半くらいのとき。僕をいじめるやつがいてね。スポーツマンタイプのやつ だった。それで、そいつとボクシングで勝負したんだ。試合でたくさん殴られた、頭をね。それでてんかんになったんじゃないかな。だって、てんかんはその直後から始まったから。それでてんかんになったと思うかもしれないけど、ボクシングの試合をしたのもストレスからだからね。

AM:なるほど。で、あなたは繊細な難しい子供で特別な学校に通ったと。特別な学校を卒業したのはいつですか?学校で良くなりました?

MA:自分が繊細だなんて思ったことないな。芸術面のことを言ったのかな?

AM:繊細でないとすれば、ご自分にどのような形容詞が当てはまると思いますか?

MA:僕たちは農家に住んでいて、僕は長いこと外をあちこち歩き回って過ごしたよ。

AM:なぜ農家に住んでいたんですか?

MA:継父が農民だったから。というか、牛を飼ってた。アフリカで農業をしていたことがあって、マウマウ団と戦って4、それからイギリスに戻ったんだ。

AM:あなたの最初の仕事は何でしたか? 大学には最初進学しなかったのですよね?

2. 銀細工師

MA:学校を出てから銀細工の仕事をした。

AM:それはどのような仕事でした?

MA:毎朝工房のブラインドを下げてね。ドアの取っ手を磨いてきれいにして。それからいろんな細工をするんだ。

AM:例えばどんな?

MA:注文生産の工房だったから、何でも作ったよ。指輪とか、銀器の修理とか、複製とか。ティーポットの取っ手用に象牙を加工したりとか。工房といってもずいぶん古臭いところでね。僕が付いた職人はそこで55年も働いて、それから気が違ったんだ。

AM:なぜ?

MA:銀を磨くのにシアン化合物を使っていたんだ。溶かすのには水を使った。シアン化合物で磨くと本当にきれいになるんだ。でも換気の設備が全然なくてね。キャンプ用のストーブでぐつぐつ煮て溶かしていたんだ。彼は手足の指の感覚が全然なくなってしまった。その後、気が違ってしまった。

AM:それで、あなたに影響は?

MA:いや別に。僕の賃金は本当に低かったから。

AM:いやそうではなくて、揮発したシアンの影響はなかったのですか?

MA:ああ、シアンのね。僕には影響はなかったと思うよ。

AM:でも、あなたはまず下働きから始めて、それから仕事を身に付けて、物を作るようになったのでしょう?

MA:いやあ、本当に古びた仕事場で。まるで第二次世界大戦中みたいだった。仕事場に入るのに古い教区教会の裏を通るんだ。教会にあったアン・ブーリンのカップを毎年1回磨いたよ。それから教会に行って時計のぜんまいを巻くんだ。本当に昔に戻ったようだった。

AM:工房もサイレンセスターにあったんですか?

MA:うん。特別学校の最後の年はサイレンセスターに通っていたからね。でもその頃は試験なんて受けられなかったんだ。試験を受けるだけの力がなかったし、生活のリズムもめちゃくちゃだったし。

AM:なぜ試験を受けるだけの力がなかったのですか?

MA:その寄宿学校では何も勉強しなかったからね。

AM:特別学校は寄宿学校だったんですか。

MA:うん。とてもおかしな所だったよ。生徒は番号で呼ばれるんだ。

AM:あなたの番号は?

MA:P28。

AM:それで、あなたは銀細工の仕事を止めたと。職人が気が違ったので。工房はそれでお終いですか?

MA:うん、彼は宝石細工師で、ほんの小さな工房だったしね。でも、本当に悲しかったよ。気が違ったんだからそれから10年して彼を見かけたんだけど、乞食になって街をうろついてたよ。

AM:それからあなたは空力学関係の仕事に就いたのですね。

3. モーター工場の職工長

MA:いや、モーター工場だよ。ボビンにワイヤーを巻く工場。

AM:で、その時何歳でした?

MA:3足す5はいくつだっけ?

AM:8ですね。

MA:18歳くらい。

AM:で、そこではどのくらい働きました?

MA:多分3-4か月。それから、職工長になりたいと思ったんだ。昇進したかった。職工長はワイヤーを機械に運んできてセットして、あとは機械が故障しないように気をつけている。その仕事をしたかった。それに、職工長になると白い服を着るんだ。そうすれば医者になったような気がするじゃないか。   

AM:でも、職工長にはなれなかった?

MA:いや、なれたよ。マイクレックスという会社でね。大きな会社だった。従業員は400人くらいいた。いくつか部署があって、エンジニアリング部もあった。職工長になったら、今度は監督になりたくなった。監督になるのはちょっと大変で、僕のいた部署で監督になる見込みはなさそうだった。女の人が監督職を押さえていたからね。監督や組合代表はみんな女の人でね。だから僕が監督になる見込みはなさそうだった。でも、ある日僕はエンジニアリング部にいた人に抜擢されたんだ。彼はエンジニアリング部で 自分の事業をしていたんだ。事業家だったよ。で、彼が僕をエンジニアリング部の職工長に引き上げてくれて、機械用の工具の研磨の仕方を教えてくれた。大きな旋盤でね。専門知識が必要だった。それで研修を受けた。僕にはエンジニアリングの知識はなかったけど、彼が教えてくれたんだ。

AM:専門知識を?

4. モーター工場の監督

MA:というか、機械の仕組みだね。危険な機械だからね。治具の取り付け方をきちんと覚えないといけない。僕が覚えたたら彼が僕を監督にしてくれた。15台あった旋盤だけじゃなくて、通路の反対側にいた工具製作部門の監督も任された。工具製作部門の従業員に出勤票を渡すようになった。ただ出勤票を渡すだけじゃなくて、従業員が勤務時間分の賃金をちゃんと払ってもらうように、残業した時は残業代をちゃんと払ってもらうように気を配った。だからとても権限が強かったんだ。それから、大型のシンシナチ製の研磨機があった。直径が2メートルくらいある軸を研磨する機械。で、そこも監督するようになった。だから、エンジニアリング部門全体を監督するようになったんだ。で、面白いことをしたよ。夜勤シフトがあったんだけど、機械が古くてしょっちゅう故障したんだ。で、誰も直せなかったから生産性がとても低かった。僕は工場のすぐ近くに住んでたんで、夜誰にも言わずに工場に行ってね。機会を修理して生産性を2倍にしたんだ。でもどうやってそうしたかは誰にも言わなかった。その時は「監督」と書かれた白い服を着て、上のポケットにはゼウス表を入れていた。

AM:ゼウス表ってなんですか?

MA:黄色い冊子でね。エンジニアに必要なあらゆる計算に必要なデータが載っているんだ。僕が使ったのはドリルの研磨と再研磨の計算だったけど。上のポケットにゼウス表を入れてると良い気分だったよ。そうしているのは真面目なエンジニアだけだったから。その時には僕はもうエンジニアだった。ちゃんと資格を持ったエンジニアだったわけじゃないけど、僕はゼウス表を持っていたし、機械のこともよくわかっていた。でも、それから僕はそこを辞めて。・・・つまり、ちゃんとしたエンジニアリングじゃなかったし、会社の景気不景気の波が大きくてね。で、僕はちゃんとした仕事に就きたかった。そこはそうじゃなかったんだ。で、僕はその時結婚していたし。

AM:結婚していたんですか? いつ結婚したんですか? その時あなたはいくつでした?

MA:19歳の時に最初の家を買った。で、彼女と3年一緒に暮らした。それから結婚したんだ。結婚したとたんに気づいたんだ。とっても暑い日だったけど、戸籍事務所から出た途端にね。彼女の父親はこう言ってた。「ずっと一緒に暮らしてるんだから、結婚登録とか結婚式とかしなくてもいいんじゃないか」って。でも、そのとっても暑い日に戸籍事務所から出たら、みんなが僕たちのことを写真に撮っていて。僕は目を細めながら、どうやったらここから抜け出せるかって考えたんだ。つらかったよ。離婚までそれから1年半かかったけど、僕は離婚した。自分が不幸せだったからじゃない。彼女は本当に素敵だった。家もあったし、何でもあった。洗濯機だって買った。

AM:あなたは幸福だったし、彼女も素敵だった。

MA:でも、内心は違ってた。それが何かは分からなかったけど、「これじゃない」って思った。

AM:あなたの内心にあったのは野心ですか、それともアート?

MA:いや、アートじゃなかった。

5. 品質検査士

MA:それで、僕はマイクレックス社を止めて近くの別の会社に移って品質検査士になった。ちゃんとしたエンジニアとしてエンジニアリングの会社には入れなかったからね。で、品質検査士になってノギスでボルトやナットの品質をチェックした。

AM:ノギスって?

MA:精密計測機みたいなもの。ボルトやナットのサイズをチェックするんだ。ただのボルトやナットじゃなくて、航空機のボルトやナットだった。だから品質検査も大変で。とはいっても、まあ単純なエンジニアリングだけどね。とても小さな会社だったけど、ある日会社が計測器、ミツトヨ5の計測器を買ったんだ。花崗岩の塊みたいな形で、ベアリング式の計測器で、データをコンピュータに送る機械だ。操作が複雑なんで製造元の日本の会社に操作方法を習いに行ったよ。ウォーウィック6あたりで研修をやってたんでそこに行った。会社が買ったのは安い計測器だった。航空機産業ならもっと大型の計測器を使うけど、操作方法は基本的に同じで、操作には熟練が必要だったよ。検査したのはとても単純な部品だったけどね。で、そこで2年働いた。良いエンジニアリングの会社だったよ。航空機産業とまでは言えないけどね。

6. デバリング7

MA:で、ある日風呂に入っていた時に、デバリングの仕事を自分で始めようと決めたんだ。Alexander Deburrerという名入りの便箋をこしらえた時は、フランスの貴族になったような気がしたよ。とってもいい名前だと思った。それで、品質検査の会社を辞めた。運転ができなかったんで、バンを買って年寄りの運転手を雇った。なんでデバリングの仕事を思いついたかというと、たくさんある中小の工場が大きな問題を抱えていることに気づいたんだ。工場は毎月たくさんの製品を作って、期日に間に合わせないといけない。製品を仕上げるとデバリングしないといけない。精密に、正確にね。で、デバリングのニーズがあると思いついたんだ。それで、Alexander Deburrerという名入りの便箋でたくさん手紙を出した。たくさんの返事が来たけど、一番よさそうだったのはリチャード・アーノルド航空機社からの返事だった。それでその会社に行ってみた。ちゃんとした会社だった。トーネイド戦闘機8やヘリコプターの部品なんかを作っていた。で、僕は自分がエンジニアリングをやってきたって言ったんだ。どんなタイプのエンジニアリングかは言わずにね。で、会社はどういう部品のデバリングを頼みたいかを言ってきた。それはごく単純なやつでね。旅客機で手荷物棚をロックするアルミの留め金。単純な仕事だったよ。留め金を一度に250個ずつ家まで運んで、2階でデバリングした。そのうち会社はもっと複雑な品物のデバリングを頼んでくるようになって。しまいには会社は僕を信用して本当に複雑な品も任せるようになった。1500万ポンドの値打ちのある品をバンに積むようになったよ。

AM:複雑な品というと?

MA:例えば、x-yボディっていうのがあった。石油会社が地中の石油を探査する時、この小さな機械を投入してどのくらいの速度や角度でそれが沈んでいくかを調べる。その中にはセンサー付きの小さな部品が入ってる。ワイヤーは付いてないけど、計測した情報を伝えることができるんだ。感度の良い液体を伝って情報が伝わるんだ。詳しくは知らないけどね

AM:で、あなたはそれにどういう加工を?

MA:表面は完璧に研磨されていて、センサー付きの部品が収まる穴にはどんなに小さな傷があってもダメだし、その部品を本体に入れる角は完璧にデバリングされてないといけない。他の所も同じ。だからとても高価な機械だった。250台で1ロットだったから、合わせるととても高価だった。今でも覚えているけど、バンが上り坂になって後部ドアが開いたことがある。途中で引っかかったから機械が落ちたわけじゃないんだけど。その時尋ねたんだ、いったいいくらの機械なんだってね。そしたら、「とても高価だよ。1500万ポンドはする」だって。

AM:それで、デバリングの仕事の後は何をしたのですか?

MA:その頃は毎日配達に行ってた。で、ある日、工場に行ってこう言ったんだ。「毎日配達するのはくたびれました」。で、デバリング用にちゃんとした建物を探し始めたんだ。でも、こう考えた。「これは重労働だ。でも自分がやりたいことじゃない。」それで、ある日ある会社でそう言った。その頃は毎週土曜日に配達してた。その会社は2人の男が始めた会社で、そのうちの1人とよく一緒にコーヒーを飲んでいた。その彼に言ったんだ。「この仕事には飽き飽きしたよ。」すると彼曰く、「君はエンジニアなんだから、よかったらここで働いてみないか。」「いいよ。」それから彼は僕に経験をたずねた。簡単なインタビューの後、彼は僕に月曜日から働きに来るように言ったんだ。

7. エンジニア

MA:その会社で僕はミツトヨの計測器を担当した。それは一部屋分あった。6メートル四方かそれ以上の大きさの花崗岩の台に載っていて、コンピュータの画面がある操作台に座って。僕が前に使っていたやつよりもずっと大きかった。トーネイド戦闘機のエンジンくらい。図面が18枚くらいあって、それをずらりと貼ってね。どれも大事だから。ブリティッシュ・エアロスペース社9はトーネイド戦闘機を製造していて、それは英国中に配備されていた。フランスとドイツにも配備されたけど、部品が違うんだ。会社ではエンジンに穴をあけるんだけど、その穴の位置は正確じゃなくちゃいけない。とても高価なエンジンだよ。エンジニア希望者がたくさん来てね。行列になってるんだ。力がないと雇ってもらえない。会社の人間がこいつなら大丈夫って思ってくれないとだめだ。仕事をしているとちゃんとやれるかどうか心配して会社の人間がやってきてね。肩越しにちゃんとやれているかどうか見るんだ。全部にきちんと目配りしなくちゃいけない。会社の人間は仕事をプログラミングした人間も含めて仕事のことはよくわかってる。それでもひょっとしたらプログラムが間違ってるかもしれない。それで、プログラムもダブルチェックするんだ。とにかくすべてが完璧じゃなくちゃいけない。僕は一番優秀なエンジニアの一人だった。何とか仕事を覚えてね。それから三角法なんかを勉強した。全然教わったことがなかったんで3か月くらいかかった。でもそれからは自分1人で夜中の2時から朝の10時までの夜勤シフトで仕事をするようになった。

AM:それはあなたに空間把握の才能があったということでしょうか?

MA:そんなことじゃないと思うよ。空間把握の才能なんてくそくらえだ。でも自分に想像力はあると思う。

AM:いやいや、くそくらえでも想像力でもないと思いますよ。それは大変難しい仕事ですよ。

MA:確かに難しい仕事だったけど。なんというか、目標設定というか。自分を売り込んだ時にはこういうことができたらいいなと夢に描いたことをできるといったんだ。自分がそう言ったら、あとは何とかやってみせるだけ。不思議だったのは、会社の人がその時「うん、君ならやれるよ」と言ってくれたこと。彼に私の言ったことを信じさせることができたんだ。彼には他のエンジニアのように僕の仕事をチェックしなくてもいいと思わせることができた。こいつなら大丈夫だと思わせられたんだ。

AM:何か心理的な思い込みのようなものでしょうか?

MA:なんかおかしいんだけど、僕はまず夢を売り込んで、それからその夢を実現するということをよくやるよ。

AM:あなたはまず夢を自分に売り込むんですか?

MA:そう。自分にまず売り込むんだ。話しながらね。2002年のターナー賞10を取ったキース・タイソン11が僕にいつもこう言うんだ。彼とはアンソニー・レイノルズ画廊12で初めて会ったんだけど。僕は人の気持ちを読むのが上手いって。話をしながら相手を観察して、話し方を修正していく。よくわからないけど、確かにそういうところはあるね。人の気持ちを刻々と読んで、相手が聞きたいと思っているように話すというか。相手に話しているうちに、話をどう続ければいいかわかってくるというか。

AM:なるほど。で、あなたはその工場でエンジニアになってよく働いたと。それから画家になろうと思ったんですか?

MA:いや、そうじゃない。その頃最初の結婚が上手くいかなくなってね。なんでそうなったのかよくわからなくて大変だった。それとは別の話だけど、その頃から僕は自分がしたいと思ったことはたいていできるんじゃないかと思うようになった。

AM:それで、あなたはなぜ航空機産業を離れてラスキンに行くことにしたんですか? それとも、その間に何か別のことでも?

MA:うん、別のことをしたよ。結婚が破たんしてとてもつらかった。前からずっと外国に住んでみたかったけどうまくいかなかった。16歳の時に葡萄摘みになろうと思って家出してフランスに行ったんだけど、どこにも葡萄畑が見つからなくてね。ベルギーに行ったこともあるけど、そこでも仕事が見つからなくて国に戻った。どちらも2週間くらい。外国での冒険については良い経験がなかったんだ。冒険家とか剣士は僕の一番あこがれの職業だったんだけど、どうすれば冒険家になれるかわからなかった。そのうち、自分のやり方がまずかったと悟った。でも田舎の農場にいた頃は本当に長い時間冒険家にあこがれていたよ。毎晩、歌を歌いながら外を歩き回ってね。家の裏の原っぱには大きなくぼみがあってね。そこに入ると上が見えなくなるんだ。で、自分がスコットランドのバグパイプ吹きになったつもりで歌いながらあたりをぐるぐる回って歩いたりした。自分がくぼみに入ると家が見えなくなってね。良い気分だったよ。何時間も何時間も歌いながら歩いた。

AM:で、そのことが冒険家につながると?

MA:僕は9歳かそこらだった。

AM:なるほど。それで、あなたは外国に行きたくなったと。

MA:いやそういうわけじゃない。僕は歴史にも興味があった。だから、牧草を刈った後の原っぱにいると自分が原始時代にいるような気がした。地面が好きだったんだ。風景にとてもロマンチックなものを感じてた。だからそれも冒険だった。何千年も昔に戻ってね、原始のローマ人になった気分にね。これも全部つながってるんだ。サイレンセスターにはローマの遺跡がたくさんあった。原っぱでは何も見つからなかったけど、それでも僕は平気だった。自分がジャングルを探検して回っているつもりだった。

AM:大変興味深いですが、話がつながりません。

MA:でも、僕は9歳だったんだよ。

AM:なるほど。でも、今は2つの時代のことを分けて考えませんか。9歳の時あなたは原っぱを探検して回った。27歳の時、あなたは冒険家になりたくてベルギーに行った。

MA:いやいやでも9歳の体験は貴重だよ。原っぱを探検して回ったことはね。

AM:なるほどそうに違いありません。でも、9歳のあなたと27歳のあなたとはどうつながるんですか?

MA:何かがつながっているんだ。もう少しだけ話をさせて。僕は極端に楽観的だと思う。楽天的にものを考えられるというか。そうやって想像したことを実現できるというか。

AM:その話はちょっと置いておきましょうよ。航空機産業を離れてから画家になるまでの間何をしていたのかを話してください。

8. 英語教師

MA:僕はずっと冒険家になりたかった。それで僕は外国に行こうとした。2度やってみたことは話したよね。でも今回は僕はもう少し年齢が上だったから別のことを考えた。ストラットンの小学校の女友達にエミリー・ローラーって子がいて、その両親は僕の両親のいる同じケンブル13の村で英語の学校をやっていた。そこにはいつも外国人が来てた。で、その人たちはどこかよその国から来たんだっていつも思ってた。それで、僕もその学校に行ってどこか外国で英語を教えられるんじゃないか聞いてみようと思ったんだ。英語を教えるには英語をちゃんと知ってなければいけないってわかってなかったんだね。でも、とてもいい考えに思えてね。それでその学校に行って、イタリアに住んで英語を教えている人に会った。イギリス人だけどイタリアのミラノに住んでいて、プロの英語教師だった。とても真面目な人。自己紹介して自分の考えを話してみた。彼の答えは「正式な資格がないと難しいかもしれない。でも何とかなるんじゃないかな。」それで、僕はすべてを放り出してミラノに行った。彼が僕にミラノのベルリッツ英語学校の住所を教えてくれたんで、ベルリッツに行ってみた。ベルリッツの建物に入ろうとしたらちょうど出てくる人がいて、その人がベルリッツのイタリアの責任者だった。イタリアの警察で英語を教えていて、自分のコースを持っていたんだ。ベルリッツで何をしていたのか訊かれたんで、「大学でエンジニアリングを学びました」って答えたよ。何を訊かれてもちゃんと答えないといけないと思ったからね。「どこで?」と訊かれたから「レディング」14って答えた。でも実はその時はレディングの綴りも知らなかったんだ。レディングが読書(reading)と同じ綴りだなんてね。でも同じなんだよね。で、彼は僕にこう言った。「ある仕事ができる人を探していてね。君は興味あるかな?」仕事の内容を尋ねたら答えはこうだった。「3か月半、あちこちの警察署で英語を8人の生徒に教える。生徒は3か月半の英語研修を受けるんだ。生徒に毎日英語を教えたり、警察の車で生徒と一緒に出かけたりする。」なかなかいい仕事に思えたんで引き受けた。まず、ベルリッツで3か月の研修を受けた。結構神経が疲れたよ。僕が「英国人(A Englishman)」と言うと教師が「そういう言い方はしない」って言うんだ。「どうして?」って訊くと、・・・。

AM:「An」

MA:そう。でも「An」って何だっけ? 母音?

AM:母音の前には子音を付けないといけません。

MA:そうなんだ。でも僕は子音が何かも知らなかった。だから研修は難しかったし神経が疲れたよ。でも何とかそれを済ませた。研修も神経が疲れたけど、最初に警察所に教えに行ったときはもっと大変だった。最初に教えに行ったのはラ・スペツィアというところの警察署だった。大きな海軍基地があってね。午後3時までは街は空っぽなんだけど、3時になると水兵がやってきて、花火なんかがあって、6時になるとまた誰もいなくなる。僕がいた時は毎日雨だったし。でも給料はしっかりもらえた。4つ星のホテルに泊まらせてくれたし、食事代も別にもらった。一人ぼっちで寂しかったんで部屋のミニバーをいつも空っぽにした。お酒じゃなくてジュースを全部飲んだんだ。僕がミニバーであまりお金を使うんでミニバーのカギを取り上げられたよ。楽しくなかった。イタリアはどこも汚職だらけで、警察もそう。僕が教えた警官は皆英語が良く話せた。僕が一番下手だった。連中の英語ときたら、イタリア語の文法だからひどいもんだったけどね。2人か3人、英語が話せない警官がいてね。「なるほど、でもシェークスピアはこう言ってます」という生徒がいるかと思えば、何にも話せない生徒もいた。生徒たちはすぐに僕のことを見抜いてね。しょっちゅう綴りを訊いてくるんだ。僕は怒ったふりをして生徒に辞書を放り投げて「綴りがわからなかったら調べるんだ!」って叫ぶ。実際、大変だったよ。それで、2期目の仕事には就かなかった。クビになったわけじゃなくて、ベニスに行こうと思ったから。でもそのときにはもうやれないって思ってたけどね。不思議なことに、ベルリッツは僕のことを見抜けなかった。警察は僕のことを見抜いたけど、それはどうでもいいことだった。午後休みたかったから。それで警察の車であちこちドライブして回った。イタリアでは汚職がひどいんで警官は皆出かけるとき警察署に銃を置いていけなくて銃をバッグに入れて出かけるんだ。婦人警官はみんなバッグにベレッタを入れてるんだ。晩飯に出かけて誰かがちょっかいを出したら最後、銃があるからお手上げ。昼食をとる食堂には古い大きな食卓があって、ベレッタが30丁勢揃い。ロンバルディアの警察署長がいてね。引っ越したばかりで家がなかったんで、毎晩レストランで食事してた。僕もそこで彼と一緒に食事をするようになった。お互い話はできないからイタリアのサッカーの試合を見ながらね。なかなか豪勢だったよ。彼はいつも僕を待っていて、それからキッチンに行って食べたいものを自由に選ぶんだ。まるで王侯のようにね。それからレストランで一緒にサッカーの試合を見る。副署長はナポレオンによく似ていた。実際、メダルが一杯下がった制服を持っていてね。皮の手袋をして。彼はいつも僕にお辞儀をして僕のことを「先生(il professore)」と呼ぶんだ。僕も身ぎれいにした。ミラノにいた時にボッギ(Boggi)の高価な服を買ったよ。短いカラーのシャツとかシルクのネクタイとか。髪をオールバックにしてね。警察のバッジを付けてね。まるでドン・ジョンソン15みたいだった。警察の車に乗ってあちこち回って、喫茶店でコーヒーを飲んで。でも、とても神経が疲れた。自分には勤まらない仕事をしていて、教師には向いてなかったし。それからミラノに戻って、病気の教師の代役をした。ある日、アルゼンチン人の生徒を教えてた。彼は英語が上手でね。英会話を教わりたがってた。彼にいい加減いやになったって話をしたら、彼がこう言うんだ。「アルゼンチンに来ないか?」って。「うちは大家族だから、うちに来てうちの家族に英語を教えてくれよ」って。それはとてもいい話に思えたんで、ベルリッツの仕事を辞めてアルゼンチンに行った。でも、それはうまくいかなかったんだ。

9. アルゼンチン

AM:アルゼンチンにはどのくらいいたんですか?

MA:2か月。でも、彼の家にはいかなかった。彼の住所を書きとめたメモがあったんだけど、アルゼンチンに着いてみたらそれが見つからなくて。シルビオとかいう彼の名前しか覚えていなくて。アルゼンチンの空港に着いて彼に電話しようと思ってメモを探したけど見つからなかった。無くしたんだ。お金も持ってなかった。5ポンドの両替もできなかった。イタリアからいったん英国に戻って両親に会って、ヒースロー空港から来たんで英国のお金を持っていたんだけど、アルゼンチンでは英国のお金は両替できないって知らなかった。ドルばかりでね。みんな5ポンド紙幣なんか見たことないんだ。最悪の始まりだった。ヒースロー空港で『アルゼンチンの太った男(Fat Man in Argentina)』という本を買った。男がバイクであちこち面白い場所を訪ねる話だ。それで、自分もそうしてみようと思った。彼の辿ったルートを辿ってね。『アルゼンチンの太った男』を読んでそれをなぞってるんですって自己紹介して。で、それはうまくいったよ。彼の行った場所はどこも面白かった。サンアントニオ・デ・グレコっていう所に行った。ガウチョの町だった。朝みんな馬に乗って仕事に出かけるんで道が混むんだ。そこに着いた最初の日、旗を立てるポールがある街の広場でベンチに座って「ここはいいや」って思った。緑が一杯で、ボリビアみたいだった。建物はみんなコロニアルスタイルでね。古ぼけてるんだけどとても素敵だった。年寄りが1人寄ってきて。太いズボンとごついベルトをして。多分90歳くらいで。ベンチに座った。いかにもたくさんのものを見てきたような黒い眼で。僕に話しかけるんじゃないかと思った。「これは面白そうだ。今夜から僕は彼の牧場に泊まって、たくさんの孫や娘さんに囲まれて」なんて想像した。それから彼は本当に僕に話しかけてきた。僕の肩をたたいてね。(不明)で、僕の想像は外れたってわけ。それから僕はボリビアに行ったけど、そこは最悪だったよ。そういう状態だと、旅をしても気持ちは大きくならないね。僕はよその国の人の暮らしぶりを見たりするのは好きじゃない。自分の生活を持ちたかった。それで帰国することにした。すぐにね。で、サイレンセスターに戻った。

AM:それから画家になることにしたんですか?

MA:いや。もう少しだから。もうすぐそこだから、急かさないで。僕はいつもアートが好きだった。でも母親は、アートは誰か偉大な人がすることだって言ってた。だから自分にアートができるなんて思えなかった。周りの人がやっていることがアートだとは思えなかったし。

AM:まあそうでしょうね。それで、どのようなアートが好きだったんですか?

MA:さあ、あまり見たことなかったし。ただアートが好きだったんだ。ミケランジェロはすごいと思った。でも、僕がアートを好きになって自分の想像力をかきたてられるようになったのは、ケネス・クラーク16の「文明」17を観たからだよ。僕がアーティストになったのはこの番組のおかげだ。ケネス・クラークが王立ギャラリーを歩いて、バックには「司祭ザドック」18が流れて。最後にその回で取り上げた絵画が映されて。それで、話が牧草地に戻るんだ。僕はそこで文明と触れ合った。牧草地を行進しながら、僕は原始の古代ローマの人の足跡に触れている」と感じてた。

AM:古代ローマ人の足跡が「文明」ケネス・クラークの歩みにつながって。そしてそれがあなたのアートの夢につながった。新しい歩みですね。

MA:ずいぶん前の話だ。最後がどうだったかは覚えてない。

AM:最後はあなたなんじゃないですか。パレットを持って、ベレー帽をかぶって。最後はダビッド19の馬に乗ったナポレオン20だったんじゃないですか。あなたの最初の作品ですよね。

MA:そう。

10. 工具製作者

MA:それで、僕は南米の旅からサイレンセスターに戻ってきた。継父はかんかんでね。母親は「実家に戻っちゃだめ。自分の家を持ちなさい」って言った。僕は自分の家を持ってたけど、そこに落ち着くのはぞっとしなかった。地元の新聞を見たらバイベリー21に小さな貸家の広告が出てたんで、車で見に行った。仕事がなかったんでただ見に行っただけだったんだけど、家主は僕のことが気に入ったみたいだった。その家は修理してあった。家主は地元の大工で何軒か貸家を持ってた。暖炉があって、天井に梁が通っていて、キッチンにはパネルが貼ってあって、とっても綺麗だった。どのくらい古いかは知らない。僕はただ見に行っただけだったんだけど、家主はこう言うんだ。「あんたのことが気に入った。貸してやるよ。お金のことは心配しなくていいよ。頭金も要らない。」で、僕に鍵を渡してくれた。僕はただ見に行っただけだったんだけどね。それから母親に電話した。「家を見つけたよ。」「どこに?」「バイベリー。2間付きの中古の家なんだ。」そしたら母親はかんかんに怒った。「仕事もないのに、どうやってお金を払うつもり。どうかしてるよ。」それで、僕は受話器をたたきつけて電話を置いた。「いったいどうしろって言うんだ。頑張って自分の家を手に入れたのに。」それで借りた家に戻って色々考えて、テレビを借りた。テレビは大事だからね。それで週末は終わった。で、月曜日になるとサイレンセスターから友達のデーブが訪ねて来てくれた。デーブは僕の母親と会って、僕が戻ってきたことを聞いたんだ。それで、彼の所で工具製作者として働くことになった。彼は僕がエンジニアだったから工具製作者になれるって思ったんだ。それで彼の会社に行った。駐車場の機械設備を作っていた。立派な工具制作の設備があったんだけど取り払われてしまって、ほんの少ししか残ってなかった。で、工具製作者もいなかった。工具を制作したくて工具製作者を探してたってわけで。もちろん僕は未経験だった。旋盤は扱えるけど、工具を作ったことなんてなかったから。でも、雇ってもらって工具製作者になった。給料は良かったよ。2万5千ポンドくらいもらった。工場の人は誰も工具の制作のことは分からなかった。それで僕は大きなアルミのビットを旋盤に取り付けて、大きなカッターを当てて、毎日工具を作った。仕事場には「立ち入り禁止」のサインがあった。良い仕事だったよ。それで僕はバイベリーの家を買えたんだ。ある日僕は原っぱで石の矢じりを探してた。そこでギャレスに会って友達になった。ギャレスは若い頃はワルでね。チンピラの仲間がいて、ギャレスはラグビーもやったけど、街で喧嘩するのが好きで。小さな街で喧嘩するのは恰好良かったんだ。でも、彼は中等教育を終えるとケンブリッジ大学に入学して歴史を勉強した。それからキャドバリー・シュウェップス22で研修生になった。でも仕事がつまらなかったんで辞めて実家に戻って、1年間何もしないで過ごしてた。彼の実家は僕が借りた家のすぐ裏手だった。で、僕らは前線から戻った第1次大戦の帰還兵みたいになってね。一緒に教区牧師に会いに行ったり、イベントの運営委員をやったりしてね。あそこにずっといたら僕らは村の顔役になれたと思うよ。顔役になって、毎日教会に行って、教会の世話役になって、お金を儲けて、みんなに認められて。でも教区牧師はエルギン卿23の孫でね。カラッチ24の絵をたくさん持ってた。とても良い、敬虔な人だったよ。美術書もたくさん持ってた。

11. 美術学生

MA:それで僕はギャレスと一緒にカラッチの絵や美術書を見せてもらってた。ギャレスは歴史が好きで美術のことも少しは知ってた。ギャレスは僕に「君は学校の成績が良かったんじゃないか、美術とか?」って訊くんだ。まあ美術の成績は良かった。働いているときもデッサンの夜学に通った。でも全然真面目に授業を受けなかったので放校になったんだけど。それで僕は考えるようになった。アートっていう全く別の世界があって、それはとても素敵みたいだって。でもそのうちギャレスはオクスフォードのセントアントニーコレッジに行ってロシア語を勉強するって言い出した。それで僕はちょっと不安になった。「君がいなくなったら僕はどうしようか?」するとギャレスはこう言ったんだ。「美術大学に行けばいいじゃないか」って。それで、地元の高等学校25に行ってみた。そこの人はとても親切で、僕にこう教えてくれた。「まず、ポートフォリオ(作品集)を作らないとね。それから教養教育を受けるんだ。」で、僕は思った。そんなんじゃいつまでたっても終わらないよって。それからギャレスと僕はどうしたらいいか相談した。それで、絵具の大箱を買ってきて、まずダビッドのナポレオンを模写することにした。それでやってみた。

AM:少し小ぶりの模写ですね。

MA:縦1.4メートル横1.2メートルくらい。原画を見てから模写を始めた。結構時間がかかったけど、ギャレスは観に来ては「すごいね」って言ってくれた。二三か月かもう少しかかった。ギャレスはとても喜んでね。すごいって褒めてくれた。それから図書館に行って入学案内を調べた。ファルマス大学26とか。でもあまりいいと思わなかった。でもどれも良くなかった。ある日、ギャレスが行く大学はどんなところか知りたくなって、オクスフォード大学の入学案内を読んでみたら、美術学部があるってわかったんだ。それでギャレスに相談してみた。彼はこう言ったよ。「オクスフォードとケンブリッジはしっかりしてるから、大学の支援なしに好きなことができるんだ。電話してみたらいいんじゃないか」って。それで、ラスキン27の学部長だったスティーブン・ファージング28に電話してみた。「大分年齢のいった学生なんですけど入学できますか? 入学できるかどうか知りたいんです。」それで、ナポレオンの模写を持って行った。彼はこう言ったよ。「これはとても良いね。でも、君にはチャンスはない。ファルマスに行ったらいいんじゃないか」って。僕はちょっとがっかりした。でも、僕は彼がつまらない人間だと気付いた。僕みたいな人間をラスキンに入れるのは難しいと彼は言った。それは美術学生も他の学生と同じくらい勉強ができなきゃいけないからだ。彼はびっくりしたんだ。ちゃんとした学生がポートフォリオを持ってくると思ったんで、僕を面接に呼んだ。そうしたら僕がナポレオンの絵を持って現れた。何の資格もないしね。それで入学を断った。でも、僕は彼に力がないことに驚いた。「自分が学生をコレッジに入学させるのは難しい」って言ったからね。戻ってギャレスに話してみた。ギャレスは、「そりゃそうさ、彼は美術の教授だろ。学内のランクは低いよ。全然力を持っていないんじゃないかな。」それで大学で力を持っているのはコレッジだと気付いたよ。彼が言ってたのは学生をコレッジに入学させることだったけど、それが大切なんだって。それで、コレッジに手紙を書いた。「ラスキンで面接を受けました。年齢のいった学生ですが、入学した後はコレッジで全日制で勉強したいのです。夏休みもずっと勉強したいのです。そういう条件で入学を認めてもらえますか。」すると入試担当から返事が来た。「〇〇氏と△△氏が来週コレッジに来られます。来てお会いになりますか」って。それで、ナポレオンの絵を持って会いに行った。みんな若い女の子がちゃちな作品を持ってくると思ったんじゃないかな。僕の絵を見てみんな議論を始めた。で、こう言ったんだ。「もし入学されたら喜んであなたを私どものコレッジで受け入れましょう」って。それで、今度はハートフォードコレッジで責任者のクリストファー・ツィーマン29に会いに行った。彼はアートが好きで美術学生に会うのが好きだったからね。僕は彼に会って自分のこれまでのことを皆話した。エンジニアリングのこともね。一緒に三角法を少しやった。それから彼は自分のアートコレクションを見せてくれた。すると、彼がいきなりこう言ったんだ。「電話をかけないといけない。」それから彼は電話してこう言った。「ラスキンのファージング教授と話したいんだけど。」ファージングが電話に出ると彼はこう言った。「マーク・アレクサンダーと会ってるんだ。彼のこと、君も気に入ったんだろう。来週から入学させたらいいんじゃないかな。年齢が上なんだから1年無駄にさせることはないだろう。」ファージングはそれに対してきっと反対したんだと思う。ツィーマンはこう言った。「ラスキンの学生をハートフォードコレッジに入学させたいんなら、マークを入学させるのがいいよ。」で、受話器をガチャンと置いた。僕は思ってた。「これは無理だな。オックスフォードに日帰り旅行に来たってことか。」でも、ツィーマンはこう言ったんだ。「必ず入学できるよ。心配いらい。」ってね。

AM:それで、入学できたんですか?

MA:いや、それからラスキンでは大変だった。ツィーマンはどちらかと言うと一匹狼で、僕のことでツィーマンとハートフォードコレッジのフェローの間でずいぶんもめた。結局、僕は入学まで1年待たなければならないことになった。来週から始めるというわけにはいかなかった。ちゃんと正規の手続を踏むことになった。うっとおしいことだった。でもツィーマンは僕に手紙を寄こした。「大丈夫だから心配しなくていい。正規の手続を踏みなさい」って。それで、僕は制作してポートフォリオを充実させ、美術史を勉強した。それから3日間の試験を受けた。デッサンと面接のね。面接は大変だった。みんな僕のことを知っていたからね。面接の最後はこうだ。「マーク・アレクサンダーの入学を認めますか?」僕は思ったよ。「ああこれでお終いだ。『残念だけどゲームオーバーです』って言うんだろう」って。でも、こう言われた。「もちろん入学を認めます」って。スティーブン・ファージングは面白くなかったみたいだった。チェスで僕が彼を負かしたようなもんだったからね。でも、実はそれからが大変だったんだけどね。彼は「おめでとう」と言ったけど、作り笑いだったよ。それから正規の教育課程が始まった。

AM:ラスキンではコンセプチュアルアートをやっている人が多かったけれど、あなたはルネッサンスの画家になることを目指していました。その点いかがでしたか?

MA:ルネッサンスの画家というよりルネッサンスの人間になりたかった。僕の最初の失敗は、ハートフォードコレッジのために史上最大の祭壇画を描こうと思ったことだった。僕を受け入れてくれたことへの感謝を表すためにね。面接で僕は入学したらラスキンの規則に従い、現代美術についても勉強すると約束した。それで、僕はまずキリストの祭壇画を仕上げようとした。デッサンもたくさんしてね。でも結局これは仕上がらなかった。あまりに大きすぎた。僕はラスキンの規則に従わずに自分のスタジオで祭壇画に取り組んだわけだ。ラスキンの人はきっと思ったろうね。「とんだ人間を入学させてしまった」ってね。他の学生はみな絵筆をとらずに毎週エッセーを書いていた。で、僕は史上最大の祭壇画に取り組みながら現代美術の勉強も始めていた。でも僕はだんだん消耗していった。ジォット30から始めて1年目の終わりにはモダニズムまで勉強した。その後は対象をもっと絞らないといけない。勉強することが山ほどあった。大変だった。1年は短かったけど、祭壇画にも取り組んでいたんで大変だった。

AM:書くことはどうしたんですか? あなたは失読症(dislexic)だったのでしょう。

MA:何を書けばいいかわからなかった。本を読んでも中身がわからず、「これはこれでいいけど、僕の方がもっと面白いことを考えてるぞ」って思った。それで自分のことをエッセーを書いた。最初のエッセーのテーマはヴァザーリ31だった。ヴァザーリの文章はとてもリズムが良いと思った。アマデウス32の映画の監督は映画によいリズムを盛り込もうとしてそれに成功している。ヴァザーリもそれと同じだと思った。それでそのことをテーマにエッセーを書いた。でも本を読んでエッセーを書きなさいというのが課題だった。それを取り違えたのも僕の失敗だった。それからルシアン・フロイド33についてのエッセーを書いた。テスコで売ってるきのことタラのレトルト食品と彼のパレットを比較するエッセーだ。レトルト食品が安易な既成の絵のスタイルのメタファーになっているとも書いた。悪くなかったと思うよ。こんなエッセーを書いてたから、評価は良くなかった。でも、問題はマルコム・ブル34が良い評価をくれたことだった。ブルは僕のエッセーがとても良いって言ってくれたけど、それはラスキンで求められる課題には合ってなかった。で、僕にはそれがわからなかったんで、成績は良くなかった。1年目の終わりに僕は落第するんじゃないかとツィーマンは焦った。学年末試験に合格しないと放校というのが規則だから。僕はそうなりそうだった。ツィーマンは大学院生に頼んで僕に勉強を教えるようにしたけど、その院生は「マークには教えられません」って報告した。僕に教えるのは無理だって思ったんだ。それから僕はオクスフォードのリネット・ブラッドリー(Lynette Bradley)という人に会った。彼女は失読症の世界的な権威だった。彼女の見立ては僕を勇気づけるものだった。彼女は僕は多分失読症じゃない、書き方や綴り方の授業をちゃんと受けなかったのが原因だろうって言った。驚いたのは、僕がある特定の分野では上位1%に入る高い知能を持っていると彼女が言ったことだ。別の分野では低いんだ。彼女がいくつかの数を読み上げて僕がそれを反復する。こういう類のテストの成績は悪かった。でも、複雑な絵が描かれたカードを僕に与えて、それを組み合わせて物語を作らせる。僕はあれこれ組み合わせて、物語らしくなるように毎回組み合わせただけだったけど、得点は毎回とても高かった。それで僕は「おいおいお前さんは馬鹿じゃないかもしれないよ」と思うようになった。ちょうどその頃、友達だったユウコにリネット・ブラッドリーの話をしたら、ユウコもこういうんだ。「そうよ、あなたは馬鹿なんかじゃない。とても頭が良いのよ」って。それからコレッジの責任者のツィーマンに会った。ツィーマンはこう言うんだ。「大学院生からの手紙を読んだよ。これから君は職を探した方が良いね。」残り6週間やそこらで試験に合格するめどは立たないからだ。で、僕は思った。「なんてこった。入学が決まった時、地元のテレビに出たのに。どの面下げて地元に戻れる?それからユウコに会った。僕はがっくりきてた。ツィーマンならなんとかしてくれると思っていたけど無理だった。祭壇画は出来上がってないし。でもユウコは僕にこう言うんだ。「いいえ、あなたならできるわ。本当に頭が良いんだから。ただやり方を知らないだけなんだから。」僕は「無理だよ」って言ったけど、ユウコは僕に今年の課題図書のリストを持ってくるように言った。リストを見せると、彼女はハートフォードコレッジの図書館で最初の5冊を借りるよう僕に言った。彼女は僕が借り出した本をさっと読んでノートを取った。それから僕に本を渡してこう言うんだ。「ノートはこういうふうに取るのよ。よく見て。本を読んで私がやったみたいにノートを取ってみて。」それで、僕は最初の5冊を読んでノートを取っていった。ユウコは毎晩ラボに行って僕の取ったノートをタイプした。ノートが5冊出来上がった。そうやってリストの本30冊のノートを取った。ユウコはとても厳しかったよ。3週間でノートがたくさん出来上がった。クレメント・グリーンバーグ35の本のノートをマルコム・ブルに見せたら、彼はこう言ったんだ。「これは素晴らしい。グリーンバーグについてぼくが読んだノートの中で最高の出来だよ。」ユウコは優れた科学者だった。日本から最高の奨学金をもらってエイズの研究をしていたんだ。僕に科学の図書館の入館証をくれたんで、図書館の最上階でスニッカーのバーをかじってノートを取った。それからマルコムに「1時間のエッセーを毎日8本書きたいのでテーマを毎日8つください」って頼んだ。マルコムがテーマをくれたんで僕は毎日エッセーを8本書いたよ。それで学年末試験を受けたらトップの成績だった。やればできるんだよね。でも、コースワークの成績は悪かった。提出物が少なかったんだ。描きかけの祭壇画とイエスの習作が数点しかなかったから。その後ユウコとの仲がおかしくなった。2年目は真面目に勉強しなかった。朝の4時頃まで街をぶらぶらしてた。ユウコとは別れた。つらかったよ。

AM:ラスキンの2年と3年をまとめましょう。どういう感じでしたかね。1年の学年末試験は何とか合格して、あなたは絵を描いた。でもその絵はラスキンの方針というかエートスには合わなかった。

MA:友達にこんなことを言ったことがある。「クライストチャーチコレッジあたりのお金持ちの女の子で、父親がアートコレクター、そういう子がいたらね」って。そんな子は見つからなかった。でもある日、ジェームズ・フェントン36の講義を聴きに行ったとき、席を探していてある女の子が眼に入った。隣の席が空いてたんでどうしても座ってやるって周りを押しのけて隣に座った。その子はドイツ語でノートを取ってた。すごいなって思った。その頃僕はアシュモレアン美術館37にあったミレーの「箱舟に帰った鳩」38を模写してた。ランチの時に彼女を見かけたんで声をかけた。「ぼくだよ。」「どなた?」「こないだの講義で隣り同志だったよ。」「どの講義?」「ジェームズ・フェントンの講義だよ。君はドイツ語で書いてたね。」「ああ、あの時の。ごめんなさい、今ちょっと忙しいの。」で、彼女が歩いて行ったから僕も一緒に歩きながら声をかけた。「君、何してんの。」とかね。で、こう言った。「僕はアーティストなんだ。」ここはひとつきっちり決めないと彼女に振られると思ったんだ。「僕はアーティストなんだ。優秀なんだよ。一度見においでよ。」そしたら彼女が立ち止った。「今、アシュモレアン美術館で模写してるんだ。今見に来ない?」でも彼女は断った。それから二三日経って、僕は彼女のことはもう忘れてた。そしたら彼女から手紙が来てね。「アシュモレアン美術館に何度行ってもあなたは来てないじゃない」って。それで、アシュモレアン美術館に行って彼女を待ってみたけど、彼女は来なかった。そのうちもう1通手紙が来て、「あなたいつもいないわね」って。チョコバーに電話番号が書いてあった。それで彼女に電話して、それからデートするようになった。付き合ってみたら彼女はアートに詳しかったよ。ニューヨークに住んでコロンビア大学でアートを勉強して、それからドイツ語を勉強しにクライストチャーチコレッジに来たんだ。名前はジャスミンっていった。
それから2人でロンドンに行って展覧会をたくさん観た。アンソニー・ドッフェイ画廊39とかキキ・スミス40とかね。僕が知らなくて彼女が好きなものをたくさん観たよ。ジャスミンと一緒だと観て面白かった。「ノートを持って行って作品を見て思いついたことを書きとめるようにしたらいいんじゃない」って彼女が言った。だから僕は展覧会にノートを持って行って思ったことを書きとめるようになった。僕はだんだん画廊のこと、その仕組みとか序列とかを学んでいった。僕は自分の作品で悩んでいたから、よくその話もしたけど、彼女は僕にアートの世界の見方を教えてくれた。それは花を写すことじゃない。それはアイデンティティを求める人、アーティストと鑑賞者のことなんだ。意味を見出すこと。そのことを僕も考えるようになった。彼女はアンゼルム・キーファー41の作品のことを教えてくれた。意味を見出すために描き続けてる画家だって言ってね。それまでそんなふうに思ったことがなかったのは、そうする意味が分からなかったからだと思う。それまでも僕は馬鹿じゃなかった。リヒター42の写実主義は好きじゃなかったし。リヒターは絵を描くという意味では美術史の最先端まで行ったかもしれない。絵の表面のイメージの誘惑を追求して、意味をほとんどなくしようとした。バーダー・マインホーフシリーズ43なんかそうだね。

AM:つまり、彼女はあなたに現代アートの世界の見方を教えてくれたということですね。それからあなたは彼女を描いた。

MA:それは最後の時、別れた後だよ。

AM:なぜ白黒で描いたんですか?

MA:カラーで描くのはまずいと思ったんだ。

AM:でも、あなたはカラーでも素晴らしい作品を描いていますよね。

MA:でもそれは習作なんだ。白黒で描くと絵を描くというとらえ方から自由になれるんだ。それに、白黒で描くとボルタンスキー44みたいな記録がしやすくなる。あと、キーファーとか。キーファーの絵には白黒が多いよね。白黒にするとフォルムじゃなくて内容を見るようになる。絵としてでなく内容を読んでほしいんだ。それから、僕は本当に上手に描きたかった。僕にはそれができた。その頃は上手に描くことは求められていなかったけどね。でも僕は上手に描きたかった。自分にはそれができると思ったし。白黒で描けば人はそれを歴史的なものととらえてその意味を読んでくれる。

AM:ラスキンでは誰かがあなたに「アートはテクニックのことじゃない」と言ったそうですね。白黒のシリーズであなたは描くことから記録することに向かおうとしたと言われました。で
もそれと同時に絵は素晴らしい出来栄えです。矛盾してませんか。

MA:矛盾してるかもしれないけど、テクニックがあれば力が増すのは間違いない。造形芸術ではテクニックはとても大事だと思うよ。自分のアイディアを漠然と紙に表現すればそれで十分で、テクニックと切り離して作品を見てほしいと思っている人は多いけどね。

AM:それには説明が必要になりますね。あなたの白黒の作品、例えばホーンチ・オブ・ベニゾン画廊45で展示されたジャスミンの肖像画は、正確には白黒じゃないですね。色彩がありますね。ちょっと説明していただけませんか。

MA:ルーブルでバルタザール・デンナー46、誰も知らないドイツの画家だけど、その作品を見たことがある。人物のクローブアップをたくさん描いたんで手の画家と呼ばれるようになった人だ。画家としては大したことないと思うけど。老婦人を描いた2点の作品は本当に素晴らしかった。写真を送ってもらうよう頼んだんだけど、白黒の写真が送られてきた。でもそれが素晴らしかった。それは写真に見えなかったし、絵にも見えなかった。何か別のものに見えた。彼が絵に注ぎ込んだもの、それが何か別のものに変わったんだ。それから、こういうことはありうると思うようになった。写実主義と絵画の間にはギャップがある。写実主義については議論は尽くされてる。それを高く評価するかしないかもアートの歴史のとらえ方次第だ。でもこの白黒写真には特別な力があると思った。それは何なんだろうかってね。

AM:原画は色彩があるんですね。

MA:そう。

AM:でも少し別な問題のような気がします。あなたが白黒で描くと、見る人はそれを白黒の絵として見ます。でもあなたが感心した絵は実際には色彩があるんですよね。

MA:それは、白黒で描いたんじゃあいい絵にならないからだ。白黒の絵は全然別の色になる。白黒で描いた最高の画家はホルバイン47だろう。でも彼の肖像画の肩掛けが黒かったら変だよ。微妙な色合いの青や茶で描かれてるんだ。本当に白黒で描こうと思ったら色彩を使わないといけないんだ。

AM:するとあなたがゴッホの医師ガシェの肖像を描いた白黒の絵は、一見黒の印象がありますが、実際には様々なトーンの灰色です。あの絵には灰色以上のものが含まれているんですか?

MA:いや、そうじゃない。あの絵で使ったのは黒でそれを白と混ぜた。混ぜると青くなる。灰色じゃない。青みを帯びるんだ。

AM:ホーンチ・オブ・ベニゾン画廊で展示された大きな黒い太陽、あの絵にはたくさんの青みがありましたね。

MA:青みがあるかどうかは問題じゃない。灰色がある限度を超えると青みがくすんでしまうんだ。だから、色合いをちょうどよく保とうと思ったら、最高の青にしようと思ったら、特に空の色ね、その場合は青でいい。でも、灰色が入ると青みが強くなりすぎるんだ。その時は赤みか何かを足してやらなきゃいけない。白黒だけじゃあ描けないんだ。

AM:あなたの太陽の絵ですが、大きな黒の太陽の絵、小さな黒の太陽の絵、それに黄金の太陽の絵が2枚あります。これまではテクニックの話をしてきましたが、あなたは明らかに太陽とい
う対象に関心をお持ちのようです。それはなぜですか?

MA:太陽のイメージはいつも持っていたよ。9歳の頃、母親がルイ14世の本を持っていてね。それにこの太陽の版画、顔が太陽から外を見ているパターンの版画が載っていた。太陽になりたいって言うのは無理だよね。それは何か切ない。でも僕らにはそういう気持ちがある。太陽になりたいっていうね。

AM:あなたのアートには自伝的要素が強いですね。あなたの作品全体がそうだということではなくて、あなたが展示用に作品を選ばれた場合、例えばホーンチ・オブ・ベニゾン画廊の個展
の作品は自伝的要素がとても強いです。赤ん坊のあなたを描いた絵が6枚ありました。そのことについて話してください。あなたは自分のことが頭から離れないんですか?

MA:いや、そうじゃないんだ。赤ん坊の時は普遍性があるんだ。見た人であれが僕だと気づかない人も多かった。気づいたら良かったんだけど。でもそれは僕のことじゃない。普遍性が肝心なんだ。アートのキャリアを始めると、他のキャリアでも同じだけど他の人のキャリアが眼に入る。いったん始めたら真剣に取り組まなきゃならない。僕は思ったんだ。「この絵はいい。写実主義で赤ん坊の自分を描くことから始めたんだな。絵に力がある。これでいいんだ。それで、80年経ったら、見た人は言うだろう。彼は自分の方向を知ってたんだなって。」絵が真剣じゃないというわけじゃない。自分の位置を言ってるんだ。写実主義というね。この絵で面白いのは、誰かが眼にライトを当てていることだ。カメラを持って写真を撮りにきて、スタジオに戻ってからきっと思ったんだろう。「この赤ん坊は元気がないな。母親が写真を買いたくなるように、仕上げにピリッと一味加えないと」ってね。どの絵も目に三角形のライトが当たってる。だからこの絵の力は誰かほかの人が僕にくれたものなんだ。2年前まで僕はそのことを知らなかった。2年前に誰かが教えてくれた。良かったと思うよ。

AM:この絵には2つのことが含まれていますね。1つは、絵は白黒だけど明確に色彩がありますね。椅子の背を覆っているビニルのカバーも素晴らしい仕上がりです。赤ん坊のほほの赤さも
素晴らしい。もう1つは、元は写真が6枚でした。写真ということではどれも同じようなものです。面白いのは、それをもとにして絵を描くと、サイズも大きくなって、それぞれが別の6人の赤ん坊の絵になりました。

MA:人間の別の状態が表現されてるからじゃないかな。ちょっと大げさだけど、別の感情が表現されてるんだ。

AM:感情と状態は違います。人間の状態をどうやって描くんですか?そのことをどこまで意識していますか?

MA:感情と状態は同時におこるんだ。それを表現する方法を追求している。僕の絵が人にどのように見えるかが気になる。だから、その絵が赤ん坊の時の僕の絵じゃないと人が思った時はびっくりした。実際、それは赤ん坊の時の僕の絵だからね。あとになってこの絵を見たら、人はそれが紛れもなく赤ん坊の時の僕の絵だとわかると思うよ。僕は人にどのように見えるかで自分の生き方を決めてるんだ。「この子はきっと成功するよ」って見られたんじゃないかな。生まれつきの性質なのか後から身につけるものなのか。僕は生まれつきの性質だと思ってたけ
ど、目にライトを当ててもらったことから考えると、後から身につけるものなんじゃないかな。よくわからないけど、でも最初からあったような気がする。「この子は自分について何かを
知ってるんだろうか、それとも誰かに教わるんだろうか」って考えた。その時僕はこの子は最初から知っていると思った。遺伝子に含まれてるってことだよ。みんなそうじゃないかな。赤
ん坊は誰も素晴らしい。みんな偉くなるように見えるよね。

AM:「この子は自分について何かを知ってるんだろうか、それとも誰かに教わるんだろうか?」これは面白いですね。あなたが以前アーティストについておっしゃったことと重なります。アーティストは自分について人が書いた言葉を使って自分のアートを語るという。

MA:例えば、リュック・タイマンス48のベルギー領コンゴシリーズがあるよね。それについていろんな人がいろんなことを言っているけど、絵やタイマンスについて得られるところはあまりないかもしれない。でも彼について書かれたエッセーがあればいろんなことがわかる。そういうアーティストは多いよ。自分について人が書けば心地よいしね。

AM:アーティスト本人も心地よいし、批評家も心地よいでしょうね。美術史にアーティストを位置づけるのが好きな人が多いですが、あなたはそういう傾向には当てはまりません。あなたがニューコレッジ49の修道院の彫像をモチーフにして制作したオジマンディアス50のシリーズがあります。縦2.7メートル近い大作です。ニューコレッジの修道院の古びた司教像などの写真を元にして制作したものですね。このモチーフをどうして選んだのですか?

MA:彫像の中にとても力強いものがあった。それがオジマンディアスの彫像だった。彫像よりも写真が素晴らしかった。彫像ならその周りを回ってみることができる。写真に撮るときにフラッシュを当てて口の下に影を作ったんだ。

AM:絵ではそのあたりがぼやけていますね。まるで口が2つあるような。

MA:離れてみると暗い方は影だとわかるよ。制作は大変だった。

AM:あなたには神秘的なところがあります。テイラー図書館の書棚の間にあなたの白黒の絵がかかっています。窓に面していてブラインドがかかっている。とても神秘的な絵ですね。

MA:うん、神秘的だね。とても小さな部屋で、小さな机が置かれ、壁には張り紙がある。「12時を過ぎたらブラインドを引いて日光が入らないようにしてください。」でも光が差し込むんだ。とても象徴的だね。オクスフォードの最初の2週間のうちにこのイメージを得た。僕が最初にエッセーを書いた部屋なんだ。

AM:あなたの絵が完成まで時間がかかるのは、先ずアイディアを得て、例えばこの場合はこのありふれた、光の差し込んだ部屋ですが、あなたはそこに何か素晴らしいもの、神秘的なもの
を見て、それをキャンバスに表現しようとする。何度も何度もそれに取り組んで、ようやく完成する。そういうことでしょうか?

MA:そうだね。最近は脳科学が進んで、脳の働きが解明されてきた。それによると、癲癇患者の脳は物のリアリティを把握する力が強いそうだ。よくわからないけど、当たっている気がする。あるものから得られる以上のものを得ようと思うんだ。この太陽の連作もそうだ。

AM:太陽の連作は興味深いですね。ニューコレッジの修道院にモチーフを得た連作の中に黄金の幻想を抱かせる絵があります。ホーンチ・オブ・ベニゾン画廊の個展には黄金の太陽の絵が2
点展示されました。やや白っぽい絵と黄色みの勝った絵です。黄色みの勝った絵はくっきりしてはっきりしていて明快です。白っぽい絵は脈動して太陽に見えます。驚くべき網膜の働きで
太陽の連作について聞かせてください。

MA:連作の1枚目はニューコレッジの修道院の彫像からモチーフを得たもので、アンソニー・レイノルズ画廊の展示に出品した。単独の作品だ。アンソニー・レイノルズ画廊の展示を見たけどどれもぞっとしなかった。でも、この黄金の太陽はなかなか良かった。自分は黄金が描けると思った。モチーフにしたのは絶望した王だ。財宝を手にしても絶望している。何かを得ていてもそのことに気づかないということはよくあることだ。

AM:それは興味深いですね。あなたは技術的な問題、どのように描けば黄金に見えるかという問題に直面しながら、それと同時にきわめて率直で興味深いテーマに取り組んでいる。

MA:僕はいつも絵を描くたびに自分を破壊したいと思ってるよ。

AM:それはどういうことですか?

MA:黄金の絵を描くというのは大変難しい課題だった。上手くいかないかもしれないし、出来栄えは良くないかもしれない。でも自分にやれるかどうか試してみたかったんだ。その頃はデルフィナ財団51のスタジオで制作していて競争が厳しかった。制作してると有名なアーティストがやってきて訊くんだ。「もう仕上がった?」って。冗談じゃない。みんなこのぼやっとした黄色い絵を見てね。これは黄金の絵なんだ。まるで戦いだった。戦いは好きじゃないけど、そういうことになっちゃった。ラスキンでも戦いだったし。

AM:試練の絵だったのですね。

MA:僕と絵を見る人の両方にとってね。

AM:つまり、あなたはコンセプチュアルアートには興味がなかった。それは軽いバーベルを持ち上げるようなもので、なんでもない。でもあなたはとても重いバーベルを持ち上げていたと

MA:僕のごく身近な人を試す絵だった。友達とか知り合いとかをね。彼らがそれをどう見るかという。

AM:それは人をだますことにも通じるんじゃないですか。あなたはいつもレベルを上げようとしている。失敗するかもしれないけど、より難しい課題を自分に課してね。で、そのことはあ
なたが人をだます話に通じますね。例えばあなたが人をだましてあなたがエンジニアだと信じ込ませたら、あなたは本当にエンジニアになってしまう。

MA:多分そうなんだろうね。でもちょっと弱ったな。だますというのは人聞きが悪いね。何か別の言い方はないかしら?

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1 ) Horsham.

2) Cirencester. イングランド南部グロースター州の町。

3 )Stratton. イングランド南部グロースター州の村。

4) マウマウ団の乱は、1952な年から1960年まで続いた英領ケニア植民地の民族主義的独立運動を指す。

5) 原文はMichitoriであるが、Mitutoyo(日本の計測器メーカー)の誤記と思われる。

6) Warwick. イングランド中央部の町。

7 )金属材料を切削加工した後に材料の角にできる出っ張り(バリ)を取ること。

8 )Tornado fighters.

9) 英国の航空機産業4社が合併して1977年に設立された国有企業。1999年にBAEシステムズに改組された。

10 )Turner Prize. 国立テート美術館主催の英国の美術賞。1984年創設。50歳以下の英国人または英国在住のアーティスト1名に贈られる。

11) Keith Tyson. 1969年生まれの英国の画家。2002年ターナー賞受賞。

12 )Anthony Reynolds Gallery. ロンドンの画廊。主な扱い作家に、土屋信子、Richard Billingham, Ian Breakwell, Erik Dietman, Peter Gallo, Paul Graham, Lucy Harvey, Emily Jacir, Kai Kaljo, Andrew Mansfield, Asier Mendizabalなど。ウェブサイトhttp://www.anthonyreynolds.com/ 

13) Kemble. イングランド南部グロースター州サイレンセスター市郊外の村。

14 ) Reading. イングランド南部バークシャーの町。レディング大学がある。

15) Don Johnson. 1949年生まれの米国の映画俳優・ロックシンガー。

16) Kenneth Clark. 1903年-1983年。英国の美術史家。

17) Civilisation. BBC制作の美術・文明史のドキュメンタリー。BBC第2放送で1969年に放送開始。ケネス・クラークが脚本を執筆し解説役を務めた。

18) Zadok the Priest. ヘンデル(Georg Friedrich Händel)がジョージ2世の戴冠式のために1727年に作曲した讃美歌。その後も英国王の戴冠式で演奏される。

19) Jacues-Luis David. 1748年-1825年。フランス新古典主義の画家。

20) アルプス越えのナポレオンを描いたダビッドの代表作。1801年制作。

21) Bibury. イングランド南部グロースター州の村。

22 ) Cadbury Schweppes. 英国の菓子・飲料メーカー。

23) Lord Elgin. 1811年‐1863年。英国の植民地行政官。

24) Annibale Carracci. 1560年-1609年。バロック期のイタリアの画家。

25) Sixth form college. 大学受験までの2年間を過ごす中等教育の公立学校。

26 ) Falmouth College of Art. イングランド南西部ファルマスにある美術大学。

27) The Ruskin School of Art. University of Oxford. 1871年に当時オクスフォード大学教授であったジョン・ラスキン(John Ruskin)が創設したオクスフォード大学の美術学部。

28) Stephen Farthing. 1950年生まれの英国の画家。1990年から2000年までラスキンの学部長を務めた。

29) Christopher Zeeman. 1925年生まれの英国の数学者。1988年から1996年までハートフォードコレッジの責任者(Principal)を務めた。

30) Giotto di Bondone. 1267年頃‐1337年。中世後期イタリアの画家。

31) Giorgio Vasari. 1511年‐1574年。イタリアマニエリスム期の画家・建築家。ルネッサンス期の芸術家の評伝で知られる。

32) Amadeus. 1984年制作のモーツァルトの生涯を描いた映画。ミロシュ・フォアマン監督。

33) Lucien Freud. 1922年‐2011年。ドイツ生まれの英国の画家。

34) Malcolm Bull. 英国の美術史家。1992年以来ラスキンの美術講師を務める。

35) Clement Greenburg. 1909年‐1994年。米国の美術評論家。

36) James Fenton. 1949年生まれの英国の詩人。1994年から1999年までオクスフォードの詩学の教授を務めた。

37 )Ashmolean Museum. オクスフォード大学付属の美術館。

38) 1851年制作。

39) Anthony D’Offay Gallery.

40) Kiki Smith. 1954年生まれの米国のフェミニスト画家。

41) Anselm Kiefer. 1945年生まれのドイツの画家。

42) Gerhard Richter. 1932年生まれのドイツの画家。

43) Baader-Meinhof series. 西ドイツ赤軍派バーダー・マインホーフグループの獄死者や活動家をモチーフとするリヒターの1988年の連作。

44) Christian Boltanski. 1944年生まれのフランスの画家・彫刻家・写真家。

45) Haunch of Benison. ロンドンの画廊。

46) Balthasar Denner. 1685年‐1749年。ドイツの画家。

47) Hans Holbein. 1497年‐1543年。ドイツ北方ルネッサンスの画家・版画家。

48) Luc Tuymans. 1958年生まれのベルギーの画家。

49) New College. 1379年設立のオクスフォード大学のコレッジ。

50) Ozymandias. 古代エジプトの王ラムセス2世の別称。

51) Delfina Foundation. 英国の財団。アーティスト・イン・レジデンスのプログラムをロンドンで提供している。

中川淳司
東京大学社会科学研究所教授

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